京都支部だより10
福谷はじめ足守地域の人にとってもお馴染みの総社宮ですが、これまで幾度か戦災などによって焼失しており、写真のような現在の総社宮の姿になったのは、江戸時代前期の貞享四年(1687)です。
戦災にあった後には、その度に再建がされていますが、室町時代に総社宮を再建した様子を記した史料が残っており、その中に福谷の人々の姿をうかがう事ができます。
総社宮って何?
そもそも今回主題となる総社宮とは、どのようなものなのでしょうか。
すぐ近くに総社市があるため、私たちにとって「総社」は馴染みのある言葉ですが、全国的にはあまり馴染みのものではありません。
しかし、かつては全国各地の国ごとに総社宮は置かれており、岡山県には3つの国(備前、備中、美作)があったので、3つの総社宮があった事になります。
しかし、岡山のみならず全国でも総社市の総社宮のように、昔の姿を良好に残している総社宮は他にありません。
総社市の総社宮は、かつてどこの国にもあった総社宮の中で唯一、その姿のまま残ったものとして、全国的にも大変貴重な文化財となっています。
さて、1つの国に1つずつあった総社宮は、平安時代頃に各地に建てられます。
この頃、「国司」という現在の県知事のような役職として、国をまとめる人が京都から下って来ていました。
国司は、担当の国に赴任して来ると、その国の神様(神社)全てに挨拶をして回る事になっていたのですが、さすがに大変だという事になり、国内の神様への挨拶を、1つのお宮への挨拶で済ませてしまおうという事になりました。
横着な話ですが、国司の手間を省く事がきっかけとなり、国内全ての神様を1ヶ所に祀ったお宮、総社宮が造られます。
私たちの福谷地域は備中国に入るので、理屈では総社市の総社宮へお参りすると、福谷の懸幡神社や星神社などへのお参りもできた事になります。
応永三十三年の備中国総社宮造営
室町時代後期、備中国では各地で戦乱が起こっていました。
不幸なことに、そうした戦乱の中で備中国総社宮は焼失してしまいます。
しかし燃えたままにしていたわけではなく、有力な武士らによって総社宮を再建しようとする動きが起こります。
中心となっていたのは安富盛光という有力武士で、他にも国内の有力な武士たちがこの再建に関わっていました。
この再建活動の様子を記録したのが「備中国惣社宮造営帳(写)」です。
この史料によると、総社宮の再建が始まったのは応永三十三年(1426)とあり、同年には吉備津神社の再建が終わって遷宮(新しいお宮に神様を移すこと)が行なわれています。
おそらく、吉備津神社の再建が終わった後に総社宮の再建に取り掛かったのでしょう。
さて、総社宮再建の手始めに、大量の材木が必要となったのですが、近かった事もあり、浮田から多くの材木を調達しています。
その事がうかがえる部分を抜き出してみると、
「八月廿日ヨリ晦日マデウイタ(浮田)山杣、薄風四ツ、垂木四百本、杣人三百十人仕事、」
という記述が見えます。
分かりにくいので現代語訳してみると、
「8月20日から30日までの間に、浮田の山杣(材木を取る山)から薄風4つ、垂木400本をとり、その作業には杣人(木を切る人。きこり)310人が携わった。」
という感じになります。
つまり、浮田の山に310人もの人が入って材木を調達しており、この人数は他の材木を調達した場所と比べてダントツに多い人数です。
また、垂木(屋根などを支える事に使う材木)も400本と大量に調達されています。
この作業に福谷地域の人々が携わったのは間違いないでしょう。
それは福谷の武士たちが、この材木調達を請け負っていたと考えられるからです。
詳しくは次回触れますが、この再建活動には福谷の武士たちが多く参加している事が確認でき、福谷地域についても有力な武士たちが成長して領主となっていた事がうかがえるのです。
(次回に続く…)
【参考文献】
永山卯三郎(編)『吉備郡史』(吉備郡教育会、1937)
「備中国惣社宮造営帳(写)」〔「池上家文書」、『岡山県史』第19巻(1988)所収〕
現在の総社宮境内
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