京都支部だより9
その後の足守庄と武士
こんにちは。京都より失礼します。
第7、8回と2回にわたって足守庄絵図を通して、平安時代末の足守の姿を見てきました。
今回は足守庄シリーズ(?)最終回として、その後の足守庄を紹介させていただこうと思います。
足守庄が荘園として寄進された経緯などについては第7回の時に詳しく見ていきました。
その際に作成された絵図が足守庄絵図ですが、何度も申し上げているように、この出来事は平安時代の末にあたります。
中央では平清盛が権勢をふるっていた時期で、この直後に源平合戦が起こり、間もなく鎌倉時代となります。
鎌倉時代に入ると、足守庄のような荘園に厄介な課題が降りかかってくることになります。
鎌倉時代の足守庄と地頭の押妨
鎌倉幕府によって全国に守護や地頭といった、御家人(ごけにん)と呼ばれる武士が置かれたのは周知の通りですが、彼らは荘園に対して押妨(おうぼう)という略奪行為や実力行使による支配をしばしば行います。
具体的には、年貢にするお米や特産物などを略奪したり、勝手に土地を自分のものにしたりと、力づくで収益を奪っていきます。
このような振る舞いをする現地の武士たちに頭を悩ませたのが荘園の所有者であり、現地でその代官として実質的な支配をしていた領主でした。
足守庄の場合、荘園の所有権は後白河法皇から神護寺に移りますが、現地で支配する権利を持っていたのは足守庄を開発した賀陽氏です。
現地の武士たちが荘園の収益を押妨することによって、京都の権力者(神護寺)への年貢も確保できず、昔から足守の実質的な支配を行なっていた賀陽氏の収益も奪っていったのです。
下にあるのは活字にされたものですが、鎌倉時代の弘長元年(1260)の書状で、京都の神護寺に残ったものです。
この頃、足守庄の所有権は神護寺にありましたが、この史料からも現地の武士による押妨の様子が窺えます(クリックすると大きく表示されます)。
『鎌倉遺文』所収、「神護寺文書」より
漢字が並んで読み取りにくいですが、線を引いた部分を簡単に見ていくと、
足守庄の地頭の代官である「末元」という人物が「非法狼藉」を行なっており、これを止めさせるために「六波羅殿」から「御教書」という書状を「末元」に送ってもらったということが書かれています。
「大蔵卿阿闍梨御房」という神護寺の僧に宛てたものですが、「(草名)」とあるように誰が書いたものかは分かりません。
内容からは、どうやらこの時、足守庄の地頭は足守に居らず、代官を置いて支配させていたようです。
このような場合、地頭たちは現地の武士を代官として任命する事が多く、ここに登場する「末元」という人物も足守に居た武士だと思われます。
この「末元」は足守庄で押妨を行なっていたようですが、これをやめさせようと思った人は「六波羅殿」という所を頼ったようです。
「六波羅」とは「六波羅探題(ろくはらたんだい)」の事で、鎌倉にある幕府に代わり、西日本の政治(主に裁判など)を行なうために京都に置かれた出先機関のようなものです。
このように、守護や地頭といった武士たちの押妨に対しては、彼らの上位者である幕府に「何とかしてほしい」と訴えることが多く、幕府もそれを受けて「御教書」などの書状を現地の武士に出して、押妨をやめさせようと働きかけました。
しかし幕府からの注意を受けても、なかなか武士たちは押妨をやめようとしませんでした。
幕府からは注意の書状が届くだけで、実質的な抑止力(武力行使など)になる事は少なかった上、幕府から給金などが出ているわけでもありません。
本来のまとまった本拠地を持たない下層の武士たちの多くは、荘園などから押妨した権益が貴重な収入源になっており、彼らはこうした権益を確保し続けるために押妨をやめることはなかったのです。
このように武士による実力支配が強まった荘園などでは、彼らの支配が浸透し、足守庄においても荘園の所有者であった神護寺や、現地支配をしていた賀陽氏の影響力は以前と比べて小さくならざるをえませんでした。
南北朝時代の足守庄
時代は下り、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が足利尊氏らによって倒された後、時代は南北朝時代に入ります。
この時期、武士から権力を取り戻そうとしたのが後醍醐天皇です。
天皇が自ら政治を行なうことを「親政(しんせい)」と言いますが、後醍醐天皇はこれを目指し、2年半の大変短い時期ですが親政を行ないました(建武の新政)。
次の史料は後醍醐天皇がちょうどこの時期に、神護寺に宛てて出した綸旨(りんじ,天皇の命令を受けて書かれる文書)です。
『大日本史料6-1』「神護寺文書」より
この文書も線を引いた部分を簡単に見ていくと、
播磨国福井庄や、丹波国吉富庄などと共に備中国足守庄も、武士たちの押妨をやめさせて、荘園の支配をしっかりと行いなさい
ということが書かれています。
実際に書いたのは、天皇の命令を受けた中御門宣明(史料中では「左小弁宣明」)という公家で、「大教院法印御房」という神護寺の僧に宛てて出されています。
足守庄と一緒に書かれている他の荘園も、全て神護寺が所有権を持っているところです。
南北朝時代になり、さらには次の室町時代、戦国時代になるにつれて現地の武士たちはますます力をつけていきます。
上にあるような綸旨を受け取ることで、神護寺は天皇の命令が出たという事を理由に武士たちに押妨をやめさせようとしましたが、ほとんど相手にされませんでした。
このように時代が下がっていくと、荘園の所有者に関係なく、実力で武士たちが支配していく土地が広がっていき、備中国や足守地域についても、以後は武士たちが多く史料に登場してくるようになります。
これまで少し視野を広げて足守庄の特集をしてきましたが、次回からは福谷地域に戻り、武士が主役の時代を見ていきたいと思います。
福谷地域出身の武士たちが登場します。
【参考文献】
永山卯三郎(編)『吉備郡史』(吉備郡教育会、1937)
『岡山県史』第19巻(1988)
網野善彦ほか(編)『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』(吉川弘文館、1999)
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