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2009年11月30日 (月)

京都支部だより8

足守庄絵図の世界

こんにちは。京都より失礼します。

前回は足守庄についてご紹介しましたが、今回は残された絵図を通して平安時代末期の足守の様子を見ていきたいと思います。

足守庄絵図は前回もご紹介した通り、嘉応元年(1169)に賀陽氏らによって作成されました。

Img_1062

小山靖憲・下坂守・吉田敏弘()「中世荘園絵図大成 第一部」(河村書房新社、1997)54pより

こちらの絵図は前回の写真版を見やすく模写したものになります(少し赤くてすみません)

実際の絵図の写真版は、第7回の支部だよりに載っていますので、また確認してみて下さい。

絵図は南側から見た図となっており、上側に大井、下側に現在の門前が位置するという構図になります。

それでは、いくつかの場所に注目して見てみましょう。

上の図や前回の写真版の図と見比べながら見ていただけると分かりやすいと思います(クリックすると大きく表示されます)

延寿寺

Photo

延寿寺は絵図の左下に描かれているお寺です。

絵図の中で最も大きく描かれている建物なので、目を引きます。

現在は田地となっていて遺跡は確認できませんが、これまでに何度か田を掘り返して発掘調査も行われました。

429号のすぐ脇での調査でしたので、見かけられた方もおられたかと思います。

この絵図と同じ場所に大きな建物の遺構が確認できていますので、絵図の延寿寺が確かにあった事が分かったのです。

吉田山付近

Photo_2 

この集落は絵図の左上に書かれています。

吉田山と聞くと馴染みがありませんが、現在の宮路山を指すと思われます。

即ち、この集落は現在の近水園の辺りになります。

この辺りは比較的人家も集中しており、平安時代にさかのぼっても足守庄の中心地となる地域だったと思われます。

福岡山

Photo_3 

絵図の中心に描かれている小山で、現在の冠山にあたり、あしもり内科やファミリーマートの近くにある小山の事です。

現在の山と比べて山頂はとがっているように見えます。

これは戦国時代にこの山を城郭として整備したためで、現在の冠山が平らで丸い形をしているのもその名残です。

絵図の冠山(福岡山)は整備前の姿を描いていますので、小さな城をどのように整備したかという面においても貴重な史料です。

三井寺

Photo_4 

福岡山の右の方に何軒か家が見えますが、その近くに三井寺は確認できます。

現在、「三井谷」という字(あざ)が残っている辺りと考えられます。

ちなみに近くに法源寺というお寺もありますが、三井寺とは関係ありません。

また、上記の冠山に三仙寺というお寺が残っています。

この三仙寺の山号は「三井山三仙寺」なので、おそらく三井寺が移ってきたものかと思います。

八幡宮

Photo_5 

現在の足守八幡宮です。

この頃から現在まで八幡宮の場所は変わっていません。

すぐ右には「半刀池」という池が見えますが、これは明らかに水田灌漑用の池(用水池)です。

足守庄は足守川が流れている地域なので、水田の用水は確保しやすかったと思われますが、逆に水害も多かったようです。

八幡宮の辺りではこのように用水池が作られ、水田の水管理も行っていたことが窺えます。

現在、「池田」という字が残っている辺りが、この半刀池があった辺りと考えられます。

さて、ここまでいくつかの場所にスポットを当てて見てきましたが、これ以外にも一枚の絵図から沢山のことが分かります。

荘園には「四至(しいし)」という四方の境目が決められているのですが、足守庄にもこの四至が確認できます。

画像にはおさまっていませんが、端の方に以下のような四至が書かれています。

丑寅(北東)

…北にある大井庄との境。畏坂山と藤木山という山が大井庄との境であると書かれています。凡そ現在の洪庵トンネルの辺りが境目にあたります。

戌亥(北西)

…大横山という山を境にしていたようで、西にある阿宗郷との境になっていたようです。

辰巳(南東)

…石畳山(現在の龍王山?)を境にしていたようです。

未申(南西)

…南にある生石庄との境で、現在も下土田の田地に「庄境」という字が残っているそうです。

また、絵図には多くの寺社が確認できます。

合わせて2社7寺を数えますが、一つの荘園にしてはとても多いです。

今回見た延寿寺や三井寺、八幡宮の他にも王子堂(王子権現の祠か)、田福寺、清水寺、吉福寺、東福寺、柄川寺が描かれています。

そして荘園の道についても、429号が出来る前の足守川沿い旧道(271)と、東側の山沿いの道にほぼ一致し、現在の姿とほぼ変わっていません。

このように、平安末期の荘園の姿が現在もよく残っている足守庄は、その絵図と共に著名な荘園です。

教科書資料集に紹介されたこともあり、今後も発掘調査などによって明らかになることが多いと思います。

残念ながら福谷地域にはこのような絵図は残されていませんが、寺社の記録や字(あざ)などから分かることも沢山あります。

福谷地域の歴史についても、こうした視点から読み取れることは多いと思いますので、また別の機会にご紹介したいと思います。

【参考文献】

永山卯三郎()『吉備郡史』(吉備郡教育会、1937)

小山靖憲・下坂守・吉田敏弘()「中世荘園絵図大成 第一部」(河村書房新社、1997)

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コメント

貴重な資料ありがとう・参考に
させて頂きます。
福谷地区・ご期待して待ってい
ます。

投稿: ISAMU | 2009年12月 1日 (火) 午前 08時52分

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